Thinking the days past. 〜みくりが池温泉を始めたころ〜
みくりが池温泉。それは世の中の大半がそうであるように、人との出会いがあり、努力があり、決断があり、挫折と夢があって、その一つ一つが石畳のように今日に続く道であり、同様に私たちの日々の仕事が明日に続く道であると思います。今はもう会う事ができない初代はどんな思いで日々を過ごしたことでしょう。2代目の前社長尾近藤一氏に以前少しですが、開業の頃についてお話をお伺いすることができたので、ここに書き記しておこうと思います。
初代尾近八郎右ェ門さんは、畑作業に、山の伐採、炭の販売、立山駅前での売店といった多種にわたる仕事をこなすかたわら様々な経緯を得て、山小屋を経営することになりました。昭和32年8月13日、簡易宿泊所「みくりが池温泉」の誕生です。2代目藤一さんは、そんな八郎右ェ門さんに連れられてよく山に来ていました。小屋は、開業しておよそ1年で3階だての螺旋階段のある山小屋となっていきました。その頃アルペンルートは弥陀ヶ原まできていました。弥陀ヶ原より上へはソリーで木材を運び、天狗からは歩荷になりました。アルペンルートが室堂まできたのは昭和32年。それまでの人の流れとは少し変わり始めました。ある日300人の予約を受けていましたが、当日になって次から次へと「泊めて下さい」と来て700人ほどになってしまったことが忘れられないそうです。石垣でできた壁の食堂はテーブルを撤去し急遽寝床となりました。どうやって泊ってもらい一夜をすごしたか今でも不思議とのことでした。
山小屋に入るのは3月10日頃。天狗から歩いて行く道は、視界が悪くひと苦労。いざ小屋に着いてもすぐに入れない。雪をトンネルを掘ってやっとの思いで小屋に入る。屋根に3メートル積もる春先の雪。
初代は、室堂駅からホワイトアウトして道を間違え、一ノ越の方に行ってしまったこともあるそうです。
50年たった小屋開けは小屋の裏にまわることもなく、玄関から防雪戸を外して入ることができます。
もちろん相変わらず地獄谷作業は危険を伴いますが。
開業当時は、水が足りなければ、みくりが池から水を汲んで運んだそうです。
小屋が軌道にのりだすと、藤一さんは畑の仕事もおろそかにしませんでした。畑と山の往復の日々。
小屋閉めの日は、吹雪の中、藤一さんと奥さんは小屋を出て1時間もかけて室堂駅に帰りました。
凍傷になりそうな手。苦労が絶えることはありませんでした。
3代目にも通じることなのですが、趣味は働く事。
山小屋の食事というと、その頃はカレーライスが主流でした。朝は梅干しにたくわん、海苔にたまご。
夕食は山菜の煮物、あざみの天麩羅、アマナ。お客様は何一つ文句も言わず、黙って食べておられました。
発電機があがったのは開業してしばらくしてのことだったので、それまではランプの宿でした。
藤一さんの奥さんは「小屋開けして1ケ月は座る暇がない」とよく言っていたそうです。
働き者の奥さん、平成5年に他界しました。たくさんのお客様から気丈な女性だったと聞きます。
働いて、働いて、また働いて。
もちろんまわりの親戚、兄弟、子供、その配偶者、孫に支えられて。
お客様に支えられて。
スタッフに支えられて。
今があります。
平成20年3月17日(月)姉妹店「ペンションおこん」にて2代目尾近藤一氏に聞く。
フロント S
追記 平成28年8月8日午後12時過ぎ、藤一氏は他界されました。(享年99歳)御冥福をお祈り申し上げます。